中村元記念館の授賞式の後で、
幕末明治維新期の話をしていました。
その話を書いてみますね。つれづれなるままに。
日本教って何?
「日本人を理解するには、日本教を理解するしか無い」
と言った人々、
イザヤペンダサンや、
その他の人々がありますね。
明治維新で日本人は何を失ったか
明治維新によって、日本人が何を失ったのか、すっと考えています。
第二次大戦後もその流れは変わりません。
祭りは仏教から切り離され
神楽は、民間人には許されず、神官にしか許されなくなりました。
宗教儀礼的生活習慣 それに関する
所作、みくさのみたからや神楽
、シャーマン的な祀り一切の動きが
民間人には一旦禁止されました。
切り離し
すなわち明治維新で、信仰と生活や儀礼的習慣の切り離しが行われました。
これはreligionという言葉に日本的宗教文化を強制的にはめ込み、
他を禁止したことにもよると思われます。
でも、それだけではないかも!
あまりにも同じ流れが続きすぎるからです。
仏教という言葉はそれ以前にはなかった
仏法、仏道と仏教は違う。
神道は神道です。
幕末明治維新前には仏教という言葉はなかったそうです。
日本の近代仏教は、明治維新前後に、
宗教的なる生活習慣とも民衆の生命力とも、
強制的に切り離されたと言えましょう。
日本教
さてそれでも、日本人には西洋人から見ると宗教にしか見えない、
ものの考え方や価値観がまだ残っているようです。
イザヤペンダサンはそれを日本教と呼びました。
例えば、
「私を捨てて公に尽くす」ということは
ある意味当然と多くの日本人は思っているフシがありますが〜
これは、アングロ・サクソン系の人たちには
一般的には理解できないらしいです。
日本人には無意識に入っているのに。
無意識だから言語化されていないので、
言語化をすぐに迫られても対応できないほどです。
分析と言語化
それに対して西洋では、
その理由を分析して組み立てなくては納得できない人が多いです。
そして言語化することで、
言語をさらなる強力な武器としてきたとも言えます。
経済でも?
経済で言えば、「国富論」を書いたアダムスミスは
「道徳的感情論」という本を「国富論」の次に書かざるをえなかったそうです。
なぜなら彼は資本主義の前提に「神の見えざる手」がある
と説いたからです。
神の見えざる手、が存在するためには、基本として
「誰かが全てとってしまったら他の人が絶滅するから、そこまではしない」といった
倫理的常識が共通認識として存在しなくてはなリマセン。
それは日本人なら、当然。
何を今更?というような当然の倫理観。
でも、西洋では、常識として存在していなかったみたいなのです。
神の見えざる手はどこへ?
そしてアダムスミスの努力にも関わらず、
どうやら
共通の倫理感は今も存在していないらしいことが、
だんだんはっきりしてきました。
「貪り尽くすのは当然」という考えは変わらなかったようです。
日本もそちらへ流れています。
限りある感覚、がなくなったのでしょうか。
だから世界の資本主義も金融も環境も
地球の存在すら
今や危機に瀕しています。
神の見えざる手 が資本主義の前提であるならば
神の見えざる手を、西洋社会でも取り戻さねば、もしくは構築せねば
当然の帰結として
資本主義は終焉を迎えることになります。
では、日本はどこへ向かって何を主張するのが良いのでしょうか????
。。。。。。。
・・・・長文にお付き合いくださりありがとうございます。
今日も明日もいい日に!!